2009年2月27日金曜日

パヴェーゼ 働き疲れて 花野秀男訳[*全篇、工事中] 

パヴェーゼ 働き疲れて 花野秀男訳[*全篇、工事中]



働き疲れて                              


南の海                 (モンティに)

 

ある晩ぼくらは丘の中腹を、
黙って歩く。夕闇のなかで
ぼくの従兄は白い服の大男で、
ゆったりと動き、顔は赤銅色に焼け、
むっつりしている。黙るのはぼくらの力だ。
[ぼくらは宵に丘の中腹を歩いている、
黙って。遅い夕暮れの影のなかで
ぼくの従兄は白い服を着た巨人で、
ゆったりと歩を運ぶ、その顔は赤銅色に灼けていた、
黙りがちに。黙ることはぼくらの力だ。]
ぼくらの先祖の誰かはよほど独りだったにちがいない
―愚者の群れのなかの偉い男だったのか、ただの間抜けだったのか―
身内にこれほどの沈黙を教えこむとは。

今晩ぼくの従兄が話した。彼と一緒に登るか
とぼくに聞いた。晴れた夜には頂上から
トリーノの、遙かな灯火の照り返しが
見わけられる。「きみはトリーノに住んでいるのだから……」
と彼がぼくに言った「……だけど当然だ。故郷から離れて
人生は送るものだ。儲けて愉しんで
そしてそれから、おれみたいに、四十歳にもなって、戻ってみれば、
何もかも新たに見いだすのだ。ランゲは不滅だ」
こうとばかりぼくに言ったけれどもイタリア語は話さずに、
ゆっくりと方言を使った。その言葉は、まさにこの丘自体の
礫にも似て、ひどくごつごつしているから
異なる訛りや海原で暮した二十年間も
引っ掻き傷ひとつ拵えられなかった。そして登り坂を歩く
眼が据わっている、それは子供のころ、ぼくが
いくらか疲れた農夫たちによく見かけたものだった。

二十年間、彼は世界中を歩きまわった。
ぼくがまだ女たちに抱かれた幼児だったころに彼は出立して
彼は死んだのだと口々に言われた。その後、彼の話は
ときどき女たちだけが、お伽噺みたいに話した。
が、ずっと口の重い男たちは、彼のことを忘れた。
ある冬の日、亡父のもとに一葉のカードが届いた
港に舫う船船の緑がかった大きな切手が貼ってあり
ぶどうの豊作を祝う言葉が添えられていた。みなびっくりしたけれど、
育った幼児が意気込んで説明した
葉書はタズマニアという島から来た
ずっと青い海に囲まれていて、獰猛な鮫がうようよいる、
太平洋の中、オーストラリアの南だよ。そしてつけ加えた
きっと従兄は真珠を採っているんだ、と。そして切手を剥した。
誰もがそれぞれ意見を述べたけれど、みなが結論した
死んでなかったにしろ、いずれ死ぬだろう。
それから誰もが忘れて長い時が過ぎた。

ああ、ぼくがマレーの海賊ごっこをして遊んでから、
どれほどの時が流れ去ったことか。そして最後に
死の淵に水浴びに下ってから
そして遊び友だちを木の上に追いつめて
太枝を何本も叩き折ってライバルの頭を
かち割って叩かれてから、
どれほどの人生が流れ去ったことか。別の日々、別の遊び、
最も狡猾なライバルたちを前に別の流血の
動揺。さまざまな思考と夢たち。
都会はぼくにとめどない恐怖を教えた。
雑沓、大通りがぼくを震えさせた、
ときには顔つきから窺い知る邪な意図さえも。
ぼくはいまでも目の中に感じる、
大喧噪の上に数知れぬ街灯の嘲笑する光を。

ぼくの従兄は帰った、戦争が終り、
わずかな帰郷者の中、群を抜いていた。それに彼は金を持っていた。
親類たちはそっと言った「せいぜい、一年のうちに、
有り金残らず使い果たしてまた旅に出るだろう。
見放された人間はそうして死ぬものだ」。
ぼくの従兄は決然とした顔をしていた。故郷に
建物の一階を買ってそこにセメントのガレージを通じさせ
その前にぴかぴかのガソリン給油機を据えさせて
湾曲部の実に大きな橋の上に広告板を掲げさせた。
それからその中に機械工を置いて金を受取らせ
彼はタバコをふかしながらランゲ中を歩き回った。
その間に郷里で、彼は結婚した。外国女みたいに
しなやかで金髪の少女を彼は掴んだ。
きっとある日、世界のどこかで出会ったにちがいない。
それでもなお彼は独りで外出した。白い服を着て、
両手を背中にまわして顔を赤銅色に焼いて、
朝から市場を渡り歩いて無表情に
何頭も馬を取引した。その後もくろみが
失敗したときに、ぼくに説明した、彼の計画では
谷からすべての家畜を取り上げて
彼から発動機を買うことを人びとに強いる心算だった、と。
「だがな、あらゆる畜生の中で」と彼は言った「一番の畜生は、
そんなことを考えたこのおれだったよ。おれは弁えてるべきだった、
ここでは牡牛と人とはまったく同じ一つの種なのだと」。

ぼくらは半時間以上も歩く。頂上は近い、
辺りには風の擦れる音とピューと鳴る音がますます激しくなる。
ぼくの従兄がいきなり止って向き直る。「今年は
ポスターにおれは書くぞ―サント・ステーファノは
ベルボ谷の祭りでは
いつも一番だった
―そいつはカネッリの連中も
言ってることだ」。それからまた坂を登る。
土と風のかおりが闇の中でぼくらを捲きつける、
遠く離れていくつかの灯火。牛舎と、自動車と
辛うじて音が聞える。そしてぼくは考える
海から、遠い土地から、継続する沈黙からひったくり、
この男をぼくに齎した力について。
ぼくの従兄は果した旅また旅の話をしない。
口数少なに何処そこにいた、あそこにもいたと言うばかりで
彼の発動機のことを考えている。

       ただ一つの夢だけが
彼の血の中に留まった。彼はかつて巡航した、
オランダ漁船チェターチェオ号に火夫として乗組んで、
そして白日の下、重い銛が何本も飛ぶのを見た、
彼は見た、鯨たちが血の泡の間を逃げまどい
追跡される鯨たちが尾を振りあげて軽快ボートと戦うのを。
ぼくと話すと彼はそのことにときどき触れる。

       だけどぼくが彼に言う
彼はこの地上で最も美しい島島の上にオーロラを
見た運のよい男たちの一人なのだ、
するとその思い出に彼は微笑んで答える、陽は
おれたちにとって一日も終り近くなってやっと昇った。

[1930年9月7-19日‐11月]



女先生たち                            

ぼくのぶどう畑、プラム畑、栗林
ぼくがいつも食べてきた果実の生る土地、
ぼくの美しい丘丘―そこにはある最良の果実が生る
ぼくはいつもそれを夢想するくせに一口も齧ったことがない。
六歳になって田舎に夏にだけ
来るとき、ほんとに大したことだ
まんまと道なかに逃げ出して裸足の大きな少年たちと一緒に
牝牛たちに草を食ませながら、酸っぱい果実を齧るのは。
夏空のもと、牧場に寝そべって、
遊びと喧嘩のあいまに女たちの話をした
そしてあの連中は謎また謎を知っていた
神々しい怠惰のなかで冷笑しながら囁かれた謎の数々。
別荘まえの路上にまだ見える
―日曜日―故郷から出てゆくパラソルたち。
だが別荘は遠いし少年たちはもういない。

ぼくの姉はあのころ二十歳だった。ぼくらに会いにいつも
テラスに登ってきた綺麗な小さなパラソルたち、
明るい色の夏服、笑みのこぼれる言葉たち。
女先生たち。たぶん彼女らのなかで
貸しあっていた本―恋愛小説―や
ダンス・パーティや、出会いの話をしていたのだろう。
ぼくは落着きなく耳を傾けて露わな腕や、
陽に曝された髪の毛のことはまだ想わなかった。ぼくの
唯一の出番は彼女らがぼくを選んで一団の案内をさせ
ぶどうを食べて地面に腰を下ろすときだった。
彼女らは一緒にぼくに戯れた。一度ぼくに訊いた
ほんとに恋人はいないのかと。
かなり、ぼくはうんざりした。ぼくが彼女らといたのは
おのれを区別するため。たとえばぼくは樹に登って、
見事なぶどうの房を見つけて力強く走れるのだった。

あるとき鉄道でこうした少女たちのうち
最も控えめな少女とぼくは出会った、どこか気をとられたような
顔つきなのに燃えるような金髪でイタリア語を話した。
フローラと呼ばれていた。そのときぼくは
汽車の信号盤に小石を投げつけていた。女友だちがぼくに訊いた
家ではそんな勇敢な行為を知っているのか、と。
混乱したぼく。すると気のよいフローラはぼくの腕を取って
ぼくの姉に―と彼女は言った―会いに往くところだ。
初夏の大いなる午後だった
そして少しでも木陰をとおって近道をしようと
ぼくらは牧場を突っ切った。ぼくに身を寄せてフローラが
何か訊ねたけれどもう覚えていない。
ぼくらは小川にさしかかってぼくは飛び越えようとした。
結局ぼくは草陰の流れの真っ只中に落ちてしまった。
岸に残ったフローラが大きな笑い声をたて、
それから腰を下ろすと、見てはだめと命じた。
ぼくはすっかり動揺した。ゆすぐみたいに
流れをかき乱す音がしたからいきなり振り向いた。
敏捷だし隠された肉体が強かったので、
ぼくの女友だちは岸を降りた、目を眩ます、
両脚も露わに。(フローラは裕福で働いてなかった)。
すぐに身体を蔽いながらぼくを叱ったけれど、
やがて笑いあって彼女に手をさしのべた。
帰路ぼくは幸せすぎるくらいだった。
しかし家に着くや、ノックはなかった。

フローラみたいに、二十歳くらいの子がぼくの故郷にはいる。
彼女らこそはああした丘丘の最も健康な果実だ、
豊かになった親類が彼女らに勉学させ
なかには野良で刈り入れた者もある。彼女らは確かな顔つきで
真面目にきみを眺めて大した食欲だ。
まるで都会にいるみたいに衣裳をまとうお嬢さんたち。
本から採った空想的な名前ばかり、
フローラ、リーディア、コルデリアそしてぶどうの房たち、
ポプラ並木さえも、彼女らの美しさには敵わない。
ぼくはいつも想像する、誰かが言うんだ
あたしの夢は三十まで
風吹きすさぶ丘の天辺の
家で暮すことよ、そしてあの上に
芽生えた野生の草木だけを世話するの。
彼女らは人生が如何なるものかよく承知している。学校では
あらゆる悲惨、幼い獣たちの公然たる
獣性の真っ只中で過しているのに、
彼女らはいつも若い。老婆になったら……
だけど老婆になった彼女らのことを考えたくない。ぼくにとっては
いつも眸のなかに宿っている、綺麗なパラソルをさして、
明るい色の服をまとったぼくの女先生たちだ、
―バックには、いくらかごつごつして陽に焼けたあの丘―
ぼくの果実、いちばん美味しい果実は、毎年新たに甦る。



身を滅ぼした女たち                      

彼女らをこのように扱うのはまさに尤もだ。
それに心の中では彼女らに同情しながらも
ベッドの中で彼女らを愉しむよりはずっとよい。
「一生のうちで最も強い必要なのだ」
むしろ言うがいい「それにおれたちはみなあの一歩を科せられている。
けれど万一おれの女があんな職業に就いたなら、
おれは怒りで息が詰ってしまうだろう、仕返しせずにおくものか」。

いつも同情するのは時間の無駄だった、
実生活は恐ろしいし、同情したからって変るもんじゃない、
歯をくいしばって黙っているほうがずっといい。
       ある晩
ぼくは汽車に乗って旅行したけど、控え目な服に、白粉をぬった、
真面目いっぽうの顔つきの独りの女がいた。
車窓の外ではいくらか青白い灯火といくらか灰色がかった緑の草木が
世界をぬぐい消していた。ぼくらは車輌―三等車―の中に
二人っきりだった、あの女と若いぼくと。
あのころぼくは話しかけ方を知らなかった
そしてあの女たちのことを想って泣いていた。こうして
いらいらと観察しながらぼくは旅行したし、あの女は
何度かぼくを見つめてはタバコをふかしていた。ぼくは確かに
何も言わなかったし、何も考えなかったけれど、いまもぼくの血の中には
あのじかの眼差しと、一瞬のあの笑いとがある
それはよく仕事をしおえた者、あるべきままに人生を
黙って受けいれた者だけがもつ眼差しと笑いだ。
             思考をすぐ言葉にできる
タイプの友だちの一人が、一人の女を救って彼女の
涙をぬぐって彼女に喜びを与えたいと欲したとする。
「いや、そいつは 一生のうちで最も強い必要なのだ 。
なのにぼくらは、科せられているんだ、頑なな心の中に
彼女らが唯一の力をもつように、何の役にも立たぬように」。

きみらは何千ものあの女たちを救えるだろうけど
タバコをふかして人を小ばかにした顔で見つめるか、
疲れた笑みを浮べる、ぼくが見た数多くのあの女たちは
―ぼくの良き連れあいたちは―黙って耐え忍んで
誰もかものために贖うようつねに生きてゆくことだろう。



                              

雲たちは大地と風とに繋がれている。
トリーノの上に雲たちがある限り
人生は美しいだろう。ぼくが仰向く、すると
太陽の下、空の彼方で大きなゲームがくり広げられる。
ごく固い白い塊と風とが真っ青な空の
彼方を翔けめぐり―ときどき塊がほどけて
光を孕んだ大きな帆となる。
屋根屋根の上から、何千もの白い雲たちが
群衆、敷石、騒音、何もかもを蔽う。
起き抜けに洗面器の澄んだ水を透かして
雲たちが見えたこともしばしばだった。
木木もまた空を大地と結びつける。
果てしない町町は森に似ている
そこでは空はずっと上に、街路の間に現れる。
木木みたいにきみはポー河畔に暮す、流れの中に
日向の家々の塊がそのように暮している。
木々もまた苦しんで雲たちの下で死ぬ
あの男は血を流して死ぬ、―けど男は歌う
大地と空との間の喜びを、都会と森との
大いなる驚異を。明日ぼくは時間があるから
閉じこもって歯をくいしばることだろう。いまはすべての
生命は空の中に失われた、雲たちと草木と街路とだ。



悲しい酒                       [Ⅰ] 

グラッパ酒を啜りにぼくが飲み屋の片隅に坐るたびに
そこには男色家か、悲鳴をあげる幼児たちか
失業者か、外をとおる美少女かがいるのは
大したことだし、誰もがぼくのタバコの煙を
中断させてしまう。「お若いの、そうなんだ、
おれはルチェントで働いてるんだから、ほんとのことだぜ」
だがその声は、四十代―だろうか―の老人の切ない
その声は、夜中に寒さの中ぼくと握手して
家まで送ってくれた男の、ぽんこつ
コルネットのその調子は、
ぼくは死んでも忘れない。
彼は酒の話はしなかったし、ぼくと話したのは
ぼくが勉学してパイプを燻らしていたからだ。
「それにパイプを吸う男が」と、震えながら彼が叫んだ
「偽者である筈がない!」ぼくは頷いた。

おれは仕事帰りの少女たちと出会った、ずっとあけすけで、もっと健康で、
両脚はむきだしの少女たち ― 何ヵ月も満足に喰ってない彼女らと ―
そしておれが結婚したのはひとえに彼女らの新鮮さに
酔いしれたからさ ― 老年みたいな愛ってやつだ。
おれは最も筋骨たくましい、いちばん生意気な女と結婚した
もういちど人生を味わって、机の後ろ、事務所の中、
よそ者どもの前でもう死ななくてすむようにだ。
けどネッラもまたおれにはよそ者だったし、とある航空士見習野郎が
おれの女房を盗み見てちょっかいを出した。
いまじゃあの卑怯者は ― あの哀れな若造は ―
大空で転覆して死んじまった ― いや、卑怯者はこのおれだ。
おれのネッラは赤ん坊に専念し ― おれの息子か分ったものじゃない ―
専業主婦そのものでおれは一人のよそ者だ
彼女を満足させられないし、おれはあえて何も言わない。
そしてネッラもまた話さずに、おれを眺めるばかりだ。

そして、呆れたことに、あの男はそう物語るうちに泣いていた、
酔っ払いが泣くみたいに、全身をわななかせて、
そしてぼくの背中に倒れかかって言った「おれたちの間では
つねに敬意を」そしてぼくは、寒さに震えながら、
何とか立去ろうと、彼と握手しようとするのだった。

グラッパ酒のグラスを啜るのは喜びだ、けれどもう一つの喜びは
不能の老人の吐露に耳を傾けることだ
前線から生きて還ってきてきみに許しを乞うのだ、彼は。
一体どんな満足を人生で得たのか、このおれが?
本気で話してるんだぜ、おれはルチェントで働いているんだ。
一体どんな満足を人生で得たのか、このおれが?



祖先たち                             

世界に唖然として宙に拳を振り回し
独り泣く、そんな年令にぼくはなった。
答えるすべもなく男たちや女たちの話に
耳を傾けるのは、少しも楽しくない。
だがそれも終った。ぼくはもう独りではないし
答え方は知らずとも、ぼくは答えずに済ませていられる。
おのれ自身を見出してぼくは仲間を見出したのだ。

ぼくは発見した、生れる前に、ぼくはつねに
頑健な男たち、おのれを持する者たちの中に生きてきたし、
彼らの誰も答えるすべは知らなかったがみな落着いたものだった。
二人の義兄たちが一軒の店を開いた―ぼくらの家族に訪れた
最初の運―なのに見知らぬ義兄は真面目で、
勘定高く、無慈悲で、倹しかった。女だった。
もう一人、ぼくらの義兄は、店では長編小説を読んでいた
―故郷は小説だらけだった[or田舎ではご大層なことだった]―そして入ってきた客たちは
素っ気ない返事を聞くことになった
砂糖は無い、硫酸塩も無い、
みな売切れた、と。ずっと後になんと
後者が破産した義兄に手を差し伸べたのだった。
こうした人たちのことを思うとぼくはおのれをずっと強く身に感じる
肩を怒らして口もとに荘重な笑みを繕いながら
鏡を見つめるよりかずっとましだ。
遠い昔にぼくの祖父が生きていた
おのれの百姓の一人に騙されるにまかせて
やおら彼はぶどう畑を耕した―真夏にだ―
見事にし終えた仕事を見るために。このように
ぼくはいつも生きてきたし、いつも確かな
顔つきで手ずから稼いできた。

そして家族の中で女たちは重きをなさない。
つまり、ぼくらの女たちは家の中にいて
ぼくらを世に出して何も言わない
そして彼女らは何者でもないし、ぼくらは彼女らを思い出さない。
どの女もぼくらの血の中に何か新しいものを注入する、
だけどその仕事の中で彼女らはみな無と化し、ぼくらだけが
こうして更新されて独り、継続するのだ。
ぼくらは悪癖と、痙攣と戦慄とに満ちている
―ぼくら、男たち、父たちは―中には自殺した者もいる、
だけどたった一つの恥だけにはぼくらは決して染まらなかった、
ぼくらは決して女にはならないだろう、誰の影にも決して。

ぼくは仲間たちを見出して一つの土地を見出した、
悪い土地だ、そこでは特権とは
未来について考えながら、何もしないことなのだ。
一つの仕事だけではぼくにもぼくの仲間たちにも充分でないからだ。
ぼくらは裂けることができるけど、ぼくの父たちの一番大きな夢は
いつも勇敢な男として 何もしないことなのだった。
ぼくらはあの丘丘をあてどなく歩き回るために生れた、
女たちなしに、そして両手は背中の後ろに組んで。



裏切り                          

今朝ぼくはもう独りではない。最近の女が
船底に身体を伸ばして舳先を重くして
いるから、ボートは夜の眠りに冷えきって
濁った静かな流れをかろうじて進む。
日向に急な波また波と砂掬人足たちの耳につく
声声で騒がしいポー川を出て、なんども撥ねたあげく
曲り角をかわして、なんとかサンゴーネ川に
ぼくは抜け出た。「なんて夢かしら」と、仰向けの身体を
動かしもせずに、空を見上げながらあの女がのたまった。
あたりに人っ子ひとり無く両岸は高く
上流ほど狭まり、ポプラ林に塞がれている。

この静かな流れの中でボートのなんと不躾なことか。
艫に直立し櫂先で水を切るごとに、
小舟がもたもたと進むのをぼくは見る。白い衣裳に包まれた
女の身体のあの重みゆえに沈む舳先のせいなのだ。
連れの女は朝寝坊だからとぼくに言ったきりまだ動かない。
身体を伸ばして独り木木の梢を見つめているし
まるでベッドの中にいるみたいでぼくのボートを邪魔している。
いま彼女は片手を水面に垂らして手のひらが泡を立てるまま
にしてぼくの川さえも邪魔している。ぼくは女を見つめられない
―女が身体を伸ばしている舳先を―女は頭を傾げて
下から詮索好きにぼくを見つめて、背中をくねらす。
舳先から離れてもっと真ん中へ来いとぼくが言うと、
卑怯な微笑みがぼくに答えた「近くに来て欲しいの?」

他のときには、木々の幹と礫との間のダイヴに雫を垂らしながら、
太陽にぼくは舳先を向け続けて、仕舞いに酔い痴れると、
この片隅に接岸して、水面と太陽の光線に盲いて、
竿を投げ出すなり、背面跳びに跳びこんで、
汗と息切れを木木の吐息と草の抱擁に
鎮めたものだった。いまは影は血の中に
重い汗と弱まった四肢に沸きたち、
木木の丸天井がアルコーブの光を
濾過する。草の上に尻を落して、言うべき言葉も知らず
ぼくは膝っ小僧を抱える。連れの女はポプラの森の中に
笑いながら、姿を消した。そしてぼくは女を追跡せねばならない。
ぼくの肌は陽に焼けて黒く剥きだしだ。
連れの女は金髪で、両手をぼくの両手の上に置いて
川原に飛び降りるとき、その華奢な指先が
隠された肉体の馨しさを
ぼくに感じさせた。他のときには馨しさは
小舟の上で乾いた川水と日向の汗だった。
連れの女がもどかしがってぼくを呼ぶ。白い衣裳をまとって
木々の幹の間を廻っているのでぼくは女を追跡せねばならない。



ぼくの中にいた少年                    

いったいどうしてあの晩牧場のあそこにいたのか知りたいものだ。
たぶん陽射しにやられてぼくはへたりこんでしまったのだろう、
そして手負いのインディアンのまねをしていたのだろう。あのころ少年は
独り丘丘を越えてバイソンを捜し求め
色塗りの矢を放ち、長槍を投げていた。
あの晩ぼくは全身隈なく戦闘色を塗っていた。
いまは、大気は涼しく、ムラサキウマゴヤシも生き生きと
ビロードみたいに深ぶかと、赤灰色の花花が
撒き散らされて雲たちと空とは
茎たちの真っ只中で燃えあがっていた。別荘では褒め言葉を
耳にするばかりの仰向けの少年は、あの空を見つめていた。
だけど日没は茫然自失させる。目を半ば閉じて牧草の抱擁を
楽しむほうがずっとよかった。水の流れみたいに包んでくれた。

突然、陽射しで嗄れた声がぼくに降りかかった。
わが家の敵、牧場主だった、
ぼくが身を沈めた水溜りの様子を見ようと立止まり
ぼくが別荘のあの坊主だと見てとり、怒って言った
よくもまあそれだけ服を台無しにできるものだ、顔を洗え、と。
ぼくはぐっしょり濡れて牧草から跳びあがった。そして両手を挙げたまま、
あのぼやけた顔を震えながら凝視した。

ああ、男の胸に矢を射こむ好機!
たとえ少年にその勇気がなかったにせよ、ぼくとしたら思いたい
それはあの男がとった厳しい命令的態度のせいだった、と。
ぼくは今日でも思いたい、平気でしっかりと振舞った、と
あの晩ぼくは黙って立去り、数本の矢を握りしめながら
ぶつぶつ言っては、瀕死の勇者の言葉を叫んでいたのだ、と。
たぶんそれは、ぼくを叩くやも知れぬ者の重い眼差しを前に
怯んだせいだろう。あるいはむしろ、赤帽の前を
笑いながら通り過ぎるときみたいな羞恥だったのかもしれない。
けれどもぼくは恐れる、それが恐怖ではなかったかと。逃げろ、ぼくは逃げた。
そして、その夜、枕への涙と噛みつきが
ぼくの口の中に血の味を残したのだった。

あの男は死んだ。ムラサキウマゴヤシは根こぎされ、馬鍬で耕された
だけどぼくは目の前に牧場をはっきりと見る
そして、奇妙なことに、ぼくは歩いてはおのれに話して聞かせる、平気で
陽に焼けた背の高い男があの晩話したみたいに。



邂逅                           

ぼくの身体をなし、数多の思い出でそれを揺さ振る
こうした固い丘丘がこの女という奇蹟をぼくに開示した。この女は
ぼくが彼女を生きていることを知らないし、ぼくは彼女を理解できない。

ある晩、ぼくは彼女と出会った。夏の霧の中
朧な星影の下、最も明るい斑点が彼女だった。
影よりも深ぶかとこうした丘丘の馨りが
辺りに立ちこめていた。と、不意にこうした丘丘から
生じたかのように澄んでしかも渋みのある
声、失われた時代の声が響き渡った。

ときどき彼女と会う。すると彼女はぼくの面前で生きている
決定的に、不変に、一つの思い出みたいに。
ぼくは決して彼女を捉えられなかった。彼女の現実は
その都度ぼくの手をすり抜けて、ぼくを遠くへ運んでしまう。
彼女が美しいかどうか、ぼくは知らない。女たちの中ではとても若い。
彼女のことを想うと、こうした丘丘に過した幼年時代の
遠い昔の思い出がぼくを不意に襲う、
それほど非常に若いのだ。彼女は朝みたいだ。
あの遠い昔の朝ごとの空という空を眸の中に仄めかす。
そして彼女は眸の中に不動の決意を秘めている。こうした丘丘の上に
夜明けの光とて決して有さなかった最も澄んだ光を。

ぼくは彼女をおのれにとって最も大切なあらゆる事物の
深みから創りあげた、それなのに彼女を理解することができない。



紙を吸う人びと                          

彼のバンドを聞かせにぼくを連れていった。一角に坐ると
彼はクラリネットを咥える。地獄の大音響が始まる。
外では、風が荒れくるい、稲光のあいまに、
雨がびんたを喰らわせて、五分ごとに、
電灯まで消える始末だ。暗闇の中、動転を
呑みくだした面面がダンス曲を
暗譜で吹き鳴らす。奥から、わが友がみなを
エネルギッシュにまとめあげる。と、クラリネットが身を捩り、
音の喧騒を破って、突きすすみ、不意の沈黙の中
たった独りみたいに発散する。

こいつら哀れな金管楽器はしばしば押しつぶされすぎる。
百姓の両手がキーを締めつけて、
どの額も、頑固に、地面からやっと見つめる。
過度の労苦に抑え、弱められた
憐れな血が、調べの中で呻くのが
聞えて、わが友がやっと彼らを指揮する。
棍棒を打ちつけ、鉋を掛け、人生を
むしりとるために両手の固くなった彼が。

かつては彼に仲間がいたし、彼はまだ三十だ。
腹を空かせて育った、戦後生れの面面だった。
彼もまたトリーノへ来た、人生を探して、
そして不正義を見いだした。笑みひとつなしに
工場で働くことを彼は学んだ。他人の飢えを
おのれの労苦で測ることを学んだ、
そしてどこもかしこもで不正義を見いだした。夜更けに
果てしない街路を眠たそうに歩きながら、心を落着けようと
したけれど、不正の上に耀く何千もの眩い街灯を
見ただけだった。しわがれ声の女たち、酔っ払い、
はぐれてよろめく木偶人形たち。ある冬
工場の電光と煤煙の中を、彼はトリーノに着いた。
そして労働とは何かを知った。人間の苛酷な宿命として
彼は労働を受け入れた。しかしすべての人間がそれを
受け入れるようにと、世界に正義があるようにとだ。
しかし仲間を作った。彼は長ながしい言葉たちに苦しみ
終りを待ちながら、それに耳を傾けねばならなかった。
そこで仲間を作った。どのアパートにもそれには数家族がある。
都会はそれにすっかり包囲されていた。そして世界の表面は
それにすっかり覆われていた。彼らはおのれの内で
世界を凌ぐほどの絶望を感じていた。

ひとりずつ教えこんだバンドには構わずに、今夜
彼はそっけなく吹き鳴らす。豪雨の騒音も灯りも
彼は気にかけない。きびしい顔が苦しみを
注意ぶかく見つめながら、クラリネットを噛む。
こうした目をしている彼をある晩ぼくは見た、彼よりも
十歳悲しく年上の兄と二人っきりだった、
灯りを欠く部屋でぼくらは夜を明かした。兄は
彼が作った無用の旋盤を仔細に眺めていた。
そしてわが友は宿命を非難した
鉋と棍棒に彼らを釘づけにしたまま
乞われずに、二人の老人を養わす宿命を。

いきなり彼が叫んだ
世界が苦しんでいるとしたら、陽射しが
罵り言葉をひったくるとしたら、宿命のせいではない。
咎むべきは人間だ。せめて立去れれば、
勝手に飢えられれば、ノーと答えられれば
おれたちの両手を縛りに、愛と憐み、
家族と、一握りの土地を操る人生に対して。



異郷にある人びと

海ばかり。ぼくらは海はたっぷりと見た。
夕方、海面が色あせて広がり
無の中に消え失せると、友は海面を見つめ
ぼくは友を見つめる。そして誰も話さない。
夜の間ぼくらは結局タンパの奥に閉じこもり、
紫煙に隔てられて、飲み交わすことになる。友には夢がある
(潮騒に合せて紡ぐどの夢もいささか単調だ)
夢の中、海面は鏡にほかならず、点在する島々の
丘丘は、野生の花々と滝に彩られている。
彼の酒はこうだ。じっと眼を凝らし、グラスを見つめながら、
海原の上に緑の丘丘を擡げさせようとする。
丘丘がぼくの性には合う。だから彼が海のことを話すがままにさせる
なぜなら彼の海はとても澄んでいて、底の小石たちまで見え見えだから。

ぼくは丘丘だけをみる、すると空と大地が
遠く近く、丘丘の中腹のくっきりとした輪郭でぼくに満たされる。
ただ、ぼくの丘丘はざらざらした土で、焼けた地面に汗水垂らした
ぶどう畑の縞模様がどこまでも続く。友はそれを受け入れ
野生の花々と果物で丘丘を装わせようとする
笑いながら丘丘に果物よりも裸の少女たちを見出すために。
そんな必要はない。ぼくの最もざらつく夢の中にも微笑みは欠けていない。
もしも明日の朝早くぼくらがあの丘丘目ざして
歩いてゆくならば、ぶどう畑の中でぼくらは出会うことだろう
陽に黒く焼けた、肌の浅黒い少女たちに、
そして話しかけて、彼女たちのぶどうの実をほんの少し食べることだろう。



ディーナの想い

早くも朝日に触れて澄みわたる冷たい流れの中へ、
身を投げるのは一つの喜悦だ。こんな時間には誰も来ない。
ポプラの樹皮に身体が触れると、身震いさせられる、
ダイビングして粟肌を音立てて流れさる水よりも酷い。水面の下は
まだ真っ暗で打ち殺されるばかりの冷たさだ。でも日向に飛出して
冷水に洗われた目で事物を眺めに戻るだけでよい。

一つの喜悦だ、とうに暖かい草の上に裸で身体を伸ばし
ポプラ林の上に聳える大きな丘丘を半眼で探して
裸のあたしを見ながらあの丘の上の誰も
そのことに気がつかないのは。釣りに出かけた
ズボン下に帽子姿のあの老人は、潜るあたしを見たのに、
あたしが男の子だと思ってしゃべりさえしなかった。

今晩にはあたしは赤い服を着た女に戻る
――道すがらあたしに微笑みかけるあの男たちはあたしがいま
ここで裸で身体を伸ばしていることを知らない――服を着て戻って
微笑みを手に入れよう。赤い服を着て、あたしは今夜
もっと強い脇腹を持ち、別の女となることを
あの男たちは知らない。この下では誰もあたしを見ない。
そしてポプラ林の向うには、微笑みかけるあの男たちよりも
ずっと強い砂掬い人足たちがいる。誰もあたしを見ない。
男たちはばかだ――今夜、誰とでもダンスしながら
あたしはいまと同じ、裸みたいになろう、なのに誰も知ることはないだろう、
ここで独り裸のあたしと会えたとは。あたしは彼らみたいになろう。
ただ愚か者たちはあたしをきつくきつく抱きしめて、
ずるく甘い言葉を耳うちしたがることだろう。でも彼らの
愛撫がなんだろう? 愛撫ならあたしは自分でできる。
今夜こそはあたしたちは裸でいることができ、お互い
ずるい微笑みなしに見つめあわねばならないことだろう。あたしは独り
微笑んでここ草の中で裸体を伸ばす、なのに誰もそのことを知らない。



風景Ⅱ

土の露出したあの丘が星屑に白みゆく、
あの上では、盗人どもは丸見えだ。丘裾の崖に挟まれていては
どの畝もみな影の中だ。物生りのいいあの上
苦労知らずの土のあそこへは、誰も登らない。
湿った土のここへは、松露採りを口実に、
何人もがぶどう畑に入り込んではぶどうの実を荒してゆく。

うちの親父がぶどうの木の間に捨てられた二房を見つけて
今夜ぶつくさ言う。ぶどう畑はとうに不作なのに、おまけにこれだ。
昼も夜も湿気て、生えるのは葉っぱばかり。
ぶどうの木々の間から上空に剥き出しのあの土地が見える
あれが昼、親父から日光を盗むのだ。あの上では太陽が
一日中燃えて土は黒焦げだ。そんなことは真っ暗でも見て取れる。
あちらでは葉っぱは生えない、力はみなぶどうの実に集るのだ。

うちの親父は濡れた草むらの中で棍棒に凭れかかって、
利き腕を痙攣させている。もし今夜盗人どもが来たら、
畝の真ん中に跳びだして背骨をへし折ってくれる。
けものみたいな所業を働くやつらだから、
どうなろうと構うものか。ときどき頭を上げて
親父は空気を嗅ぐ。暗がりからつんと届いたように思うのだ
掘りだされた松露と土の匂いが入り混じって。

天へ向って伸びるあの丘の斜面では、
木々の日蔭は無い。ぶどうの実は地面を這いずっている、
それほどたわわに重いのだ。あそこでは誰も身を隠せない。
丘の頂に木々の斑点が黒ぐろと疎らにくっきりと
見える。もしあの丘の上にぶどう畑を持っていたなら、
うちの親父はベッドの上で、鉄砲を構えて、家に居ながらにして
見張ることだろう。ここ、谷底では、鉄砲さえも
親父の役には立たない。なぜなら暗闇の中には樹葉しかないのだから。



大山羊神

田舎は緑の神秘にみちた国だ
夏にだけ来る少年にとっては。牝山羊は噛んだ
ある種の花々で、お腹が膨らむから、走らずにはいられない。
男がどこかの娘と楽しんだときには
――あの下には毛が生えていて――赤ん坊でお腹がふくらんでくる。
牝山羊たちに草を食ませているあいだは、脅したり賺したりするが、
陽が落ちると、どの娘も背後を気にしだす。
少年たちは知っている、水蛇が通ったときには
地面に残る曲がりくねった跡から、それがいつかを。
だが誰にも分からない、もしも水蛇が
草むらを通るなら。牝山羊たちのなかには往ってしゃがみ込み
草むらのなかで、水蛇に吸わせて楽しむやつがいる。
娘たちも楽しむのだ、身体を触らせて。

月が昇れば牝山羊たちはもうじっとしていられない、
けれども連中をあつめて家まで押しやらねばならない、
さもないと、大山羊神が立ちあがる。牧場を跳ねまわっては
どの牝山羊のお腹も切り裂いて姿を消す。娘らは火照った身体で
夜更けに、独りで森のなかにやってくる、
そして大山羊神は、彼女らが草むらに横たわって啼けば、走って逢いにやってくる。
だが、月が出るや、真っ直ぐ立って娘たちのお腹を貫く。
そして牝犬たちが月影に吠える、
なぜなら大山羊神が丘丘の頂に飛び跳ねるのを
感じとり、血の匂いを嗅ぎつけたから。
そして牛馬が厩舎の中で身を震わせる。
最も強い牝犬たちだけが綱に何度も咬みついて
中には身を振りほどくと大山羊神を追って走りだす牝犬もいる、
大山羊神は炎よりも赤い血を牝犬たちに吹きかけて酔わせ、
やがて誰もがダンスし、真っ直ぐに立ちつづけて月に吼える。

夜が明けて、放蕩犬が毛も抜けて歯も剥きだしに唸りながら舞いもどると、
農夫たちは牝犬の尻にひと蹴りくれてやつに押しつける。
そして夜ごとにほっつき歩く息女や、暗くなってから帰宅する少年たちには
牝山羊一頭見失ったからには、首筋に平手打ちを喰らわす。
女ども、農夫たちがひしめき、遠慮会釈なしに汗水たらす。
昼も夜も歩きまわり、恐がりはしない
月明かりで土を掘り返したり、あるいは
暗闇でハマムギのかがり火を焚くことも。だからこそ、大地は
こんなにも美しく青々として、掘り返されるや、夜明けの光の下、
火傷した顔という顔の色を呈するのだ。ぶどうの穫り入れにいって
みなが食べ、歌う。トウモロコシの皮剥きに出かけて
みな踊り酒を飲む。笑いだす娘たちの声が聞える、
誰かが大山羊神のことを思いだしたから。あの上、丘の頂で、森のなかで、
砂利だらけの崖で、農夫たちは見かけた、
大山羊神が牝山羊を探して木々の幹に頭突きをくれるのを。
なぜなら、一頭のけものが働くことを知らず
胤つけだけに日を送るならば、破壊こそが彼の歓びとなるからだ。

[一九三三年五月四-五日]



バレー(音楽と舞踏のパントマイム)

彼は大男だ、女を待つとき、ちらと振り返るだけで通り過ぎ、
待つようには見えない。だが決してわざとやっているわけではない。
彼はタバコをふかし、人びとが彼を眺めている。

この男と行くどの女もみな小柄で
あの大きな身体に笑いながら寄りかかり、眺める
人びとに呆れている。大男が歩き出し
女は男の身体全体の一部にほかならないが、
ただずっと活発だ。女は問題ではない、
毎晩違う女なのに、決まって小柄な女で
踊る小さな尻を窄めながら笑っている。

大男は道すがら小さな尻が踊るのを許さない、
だから恬としてその尻を運んで下ろさせて
毎晩挑みかかり、女は満足する。
その挑戦に、女は何度も叫び声をあげて身を捩り、
大男を見つめながら、赤ん坊に戻る。
二人のボクサーからフットワークとパンチの鈍い音が
聞える。だがふたりはこんなに裸で
絡まりあってダンスしてるみたいだし、女は
目を丸くしてふたりを見つめ、満足して唇を噛む。
大男に身を委ねて赤ん坊に戻る。
受け入れてくれる断崖に身を任せるのは一つの快楽だ。

もし女と大男が一緒に衣服を脱ぐのなら
――もっとあとで脱ぐのだろうし――大男は
穏かな断崖、燃えあがる断崖にも似て、
赤ん坊の女は、身を温めに、あの大きな岩にしがみつく。



父性

ダンスする女と、老人の幻想
老人は女の父親で、かつて女を血の中に持っていた
そしてある夜、素っ裸でベッドで愉しみながら、女をなしたのだ。
衣装を脱ぐのに間に合うように彼女はダンスを端折る、
待っている老人がほかにもいるのだ。みなが
女を貪る、彼女がとび跳ねて踊るとき、下肢の力を
眼で貪る、だが老人たちはその力に戦くばかり。
若い女はほぼ全裸だ。そして若い男たちは微笑んで
見つめている、誰かが裸になりたがる筈だ。

ファンの小柄な老人たち、誰もが女の父親に見える
誰もかもぐらついて、ほかの肉体を愉しんだ
肉体の残滓でしかない。若い男たちも他日
父親となるだろう。なのに女はみなにとってあたし独り。歓びが深ぶかと
生きている若い女の前の暗闇を染めあげる。
みなの身体は一つの身体、みなの眼差しを釘づけにしながら
揺らめくたった一つのこの身体にほかならない。

若い女の真っ直ぐな四肢を走るこの血は、
老人たちの中で凍る血だ。そして身を温めに、
黙ってタバコを燻らしている女の父親は、
とび跳ねこそしないが、ダンスする息女をなしたのだ。
彼女の身体の中にはある馨りとある撥ねがある
それはあの老人の中に、そしてほかの老人たちの中にもあるのと同じだ。
黙って父親はタバコを燻らし、息女が衣裳を身に纏って戻るのを待っている。
若い男も年寄りも、誰もが待っている。そして女を見つめている。
そしてどの男も、独り飲みながら、彼女のことをまた想うことだろう。



受苦の女たち

少女たちは陽が落ちると海に降りる、
そのころには海原は薄れゆき、広がりきっている。森の中では
どの梢の葉も慄いているのに、彼女たちは用心深く
砂浜に姿を現すと、岸辺に腰を下ろす。海の泡は
遠い波打際沿いに、不安そうに戯れている。

少女たちは波の下に隠された昆布を
恐れている。脚や肩を掴まれてしまうからだ。
身体は素裸なのに。そそくさと岸に舞い戻って
口々に名前を呼びあい、辺りを見まわす。
暗黒の中で、海の深みの影たちが、
途轍もなく大きく定かではなく蠢いて、
とおり過ぎる少女たちの裸体に魅せられたみたいなのだ。森は
沈みゆく太陽の下、砂浜よりも心休まる避難所だ。なのに
色の黒い少女たちはシーツを身体に捲きつけて、
開けた場所に腰を下ろしているのが好きなのだ。

彼女たちはみな腿を引寄せ、下肢にシーツを固く巻いて
黄昏の牧場を見るかのように
広がる海に見惚れている。誰がいま
牧場に裸で身体を伸ばすだろうか? 海から
昆布たちが跳びだしてきて、足という足を掠めて、
戦く身体をひっ捉えて包みこんでしまうことだろう。
海には眼がいくつもあって、時折それが透けて見えるのだ。

あの見知らぬ外国女は、夜中に
独り裸で、新月の真っ暗闇を泳いでいたが、
ある夜姿を消して、二度と戻らなかった。
あの女は大柄で眩いばかりに肌が白かったに違いない
なぜなら眼が、海の深みから、彼女まで届いたのだから。



真夏の夜の月

黄色くひしめく丘のかなたに海はある、
あの雲たちのかなたに。けれど戦慄の日々が
空にうねっては爆ぜる丘また丘となって
海のまえに立ちふさがる。この上にあるのはオリーヴの木と
姿を映すにも足らぬ水の井戸、
そして刈株、刈株、目路のかなたまで。

そして月が昇る、夫はのびている
畑のなかに、頭蓋を太陽に撃ち砕かれて
――新妻には死体を曳きずることはできない
袋みたいには――。月が昇って影を少し投げこむ
捩れた枝の下に。女はその暗がりで
怯えたうすら笑いを血まみれの大顔に向ける
血は固まって犇く丘のどの襞をも侵す。
畑にのびた死体は動かない
暗がりの女も。それでも血まみれの片目が
誰かに目くばせして道を知らせているみたいだ。

裸の丘から丘を長い慄きが押し寄せてくる
遠くから、そして女は背後にそれを感じている、
麦畑の海をそれが走り抜けたときのように、
見失ったオリーヴの枝たちまでが押し入ってくる
あの月光の海のなかに、そして早くも暗い樹蔭が
身を捩って彼女まで呑み尽そうとする。

女が外へ跳びだしてゆく、月光の戦慄のなかへ、
すると砂利の上に音をたてて風が追いすがり
薄いシルエットが女の足裏を咬み、
母胎に陣痛が兆す。女は背を丸めて暗がりに戻り
砂利の上に身を投げて唇を噛む。
その下では、黒ぐろと大地が血に濡れてゆく。

[一九三五年八月]

          [*全篇、工事中]
           (以下、工事中)

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